警察の狙撃部隊が犯人を射殺した瀬戸内シージャック事件の真相とは?

1970年5月12日から5月13日にかけて広島県と愛媛県間の瀬戸内海で発生した旅客船乗っ取り事件「瀬戸内シージャック事件」です。
乗っ取られた船の名称から「ぷりんす号シージャック事件」とも呼ばれているようです。

【瀬戸内シージャック事件】
瀬戸内シージャック事件は、1970年5月12日から5月13日にかけて広島県と愛媛県間の瀬戸内海で発生した旅客船乗っ取り事件である。
乗っ取られた船の名称から「ぷりんす号シージャック事件」とも呼ばれる。

「事件の概要は以下のとおり。」

・1970年5月12日午後4時頃、広島市内の銃砲店から猟銃3丁を盗んだ川藤展久(当時20歳)は、同日午後5時頃、広島港の待合室で銃を乱射しながら桟橋に向かい、船舶への乗船を阻止しようとした警戒中の警察官に発砲し負傷させた。
川藤は、停泊していた愛媛県今治市行きの瀬戸内海汽船所属の定期旅客船「ぷりんす号」に乗り込み、船長を「どこでもいいから大きな街に行け」と脅迫して午後5時15分に出航させた。
・川藤は、船内で人質を取って警察との交渉を続けたが、交渉は決裂し、翌13日午前7時頃、警察官の狙撃によって射殺された。
・この事件は、日本で初めてのシージャック事件であり、警察官が犯人を狙撃して人質を救出した事件としても知られている。

「事件の背景」

川藤は、広島県の農家に生まれ、幼い頃から両親の離婚や祖母の死などの家庭環境の不安定さから、不良少年として育った。
19歳の時に窃盗罪で少年院に送致され、出院後は職にも就かず、生活に困窮していた。

川藤は、1970年5月12日、広島市内の銃砲店から猟銃3丁を盗み、シージャック事件を計画した。
川藤は、事件の目的について、「世の中をよくしたい」「自分も注目されたい」などと語っていた。

「事件の影響」

瀬戸内シージャック事件は、日本の社会に大きな衝撃を与えた。
この事件をきっかけに、日本でもシージャック事件への対策が強化され、警察の特殊部隊「SAT」も創設された。

また、この事件は、当時の日本社会が抱えていた社会不安や政治的混乱を反映したものとしても捉えられている。

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