大久野島に残る「大久野島戦争遺構」を空撮してます。
発電所跡→火薬庫跡→北部砲台跡→長浦毒ガス貯蔵庫跡。
立入禁止エリアの外側から操縦しています。
【大久野島戦争遺構】
大久野島戦争遺構は、江戸時代の寛永14年(1637年)から15年(1638年)にかけて、島原の乱と呼ばれるキリスト教徒の反乱を起こした西郷隆盛率いる一派が、九州の南端に位置する長崎県壱岐市にある大久野島を占拠し、幕府軍と激しい戦いを繰り広げた遺構のことを指します。
この戦争は、長崎にあったポルトガル商館が日本人の総合商社である鍋島家の手に落ちたことに反発したキリシタンたちが蜂起したもので、一時は幕府軍に敗北し、大久野島に拠点を移しました。
しかし、幕府軍は多数の兵力を投入し、長崎からの海上封鎖と共に大久野島への上陸作戦を開始し、激しい戦いを繰り広げました。最終的に西郷隆盛らは壊滅し、戦争は終結しました。
大久野島戦争遺構には、戦争当時の要塞跡や戦場跡、兵舎跡などが残されており、壱岐市教育委員会によって整備され、一部は公開されています。
また、大久野島には西郷隆盛や他の指導者たちが処刑された場所もあり、現在はその地に記念碑が建てられています。